左手を上げて、やぁ!【ちょここ父の思い出】
保育園の帰り道。
次女がアリさんの行列を観察し始めて早10分が経過していた。とっとと帰って夕飯の支度をしたいのに、子供には自分のご飯よりアリの引越しの方が重要案件らしい。
困ったなぁ。
困りながらも笑ってしまう。
いつも私に抱っこされる妹を見て羨ましそうにしている長女は、こういう時くらいしか私を独占できない。「りりぃちゃん歩いてよね」と言いながら私の手を握り、嬉しそうにしている。
我がまましたい時も我慢しているのだろう。
長女の手を握り返して、可愛いなぁと思う。
「さくらちゃんに、お母さんが手を上げてるねって言われたよ」
お母さんが手を上げている?
ああ、お迎えに行った時の話だな。他のママさん達は、保育園にお迎えに行くと、最初に「こんにちわ」「ありがとうございました」と、頭を下げながら先生に挨拶をする。
けれど私は「やっほー!」と左手を上げて娘たちにアピールしてから、先生とお話をしているのだ。
さくらちゃんに変なママだと思われてるかな。
そうかもしれない、目立つもんね。
でもお母さんは、あなたとりりぃちゃんが好きだから、わざと左手を上げてお迎えに行くんだよ。
父のラーメン屋
私の両親は、私が小学5年生の頃から飲食店を営んでいた。一品料理が自慢で、エビチリと麻婆豆腐とチャーハンが売りの店。一番人気は手作り餃子なところが庶民派だけど、「うちはラーメン屋じゃなくて中華料理屋だよ」と父に窘められていた。
ラーメンは、普通盛りでも他所の店に比べ1.5倍は麺が多かった。1杯500円で女性なら食べきれないほど満腹になれる、美味しくてお客さん想いの優しいお店。
自宅と店は車で1時間ほどの距離があり、両親が帰ってくるのは毎晩11時過ぎだった。2つ上の兄とふたりで、母が作り置きしてくれたおかずを温め、テレビを観ながら静かに食べた。
店の休みは水曜日。
毎週水曜だけは、家族そろって夕飯を食べる。嬉しいけれど、父はスープの仕込みをするために翌日4時には家を出る。だから早く食べて早く寝たいらしく、夕方4時半からディナースタート。
父の作るラーメンが好きだった。店も綺麗で女性からの評判も良く、友人たちに自慢したいくらいだった。でも遠いし、連れていくほど仲の良い子もいないし、面倒だった。
自分達の都合で週6日は家を空けているくせに。
休みだからと4時半に夕飯を食べさせるなんて意味不明。
思っていることを外に出せない性格の私は、イライラしながらやり過ごしてた。
父と私
小学5年生、軽く反抗期だったのかもしれない。親と一緒にいるのは苦痛だけど、離れていることは寂しいと感じていた。
母もさぞ手を焼いたことだろう。
我がままで傷つきやすい娘に、父の働いているところを見せようと、よく店に連れて行ってくれた。店の入り口から見て左手にカウンターがあり、その奥が厨房だった。コック帽の隙間から汗をたらし、必死で中華鍋を振る父の姿が見える。
私が店に顔を出すと、父は眉間にしわを寄せてギロッと睨んでくる。そして左手を「やぁ」と上げてみせる。
怖い。
知らない人からしたら怒ってるように見える。
睨みつけたように見えるのは目が悪いせいだし、左手を上げたのは、右手におたまを持っているからだ。
私も神妙な顔をして左手を上げかえす。
「お父さんのラーメンを食べに来たよ」心の中で、小さくつぶやいた。
父と脳梗塞
開店当初は客入りが少なかったものの、リーズナブルな価格で美味いと口コミが広がり、父の店は次第に繁盛していった。パート5人、アルバイト5人をローテーションで回し、父も母もひたすら働き続けてた。
私が社会人になりひとり暮らしを始めた頃、父は脳血栓(脳梗塞の一種)で倒れた。
左の脳で血管がつまり、あと少しのところで破裂するところだったそうだ。初めての大きな病気に家族も本人もビックリしたが、回復力が高く命に別状はなかった。
右半身の麻痺があったけれど、地道なリハビリの成果か約3ヶ月ほどで退院することができた。ちょうど長嶋監督が脳梗塞で倒れたのと同じ時期だったから、父は「長さんは俺のマネしてるな」と、眉間にシワを寄せて冗談を言った。
飲食店は数か月でも店を閉めてしまうと、固定客が来なくなる。
父の入院中、母は一品料理以外のメニューのみで店を開きつづけていた。ひとりでラーメンを作り、ひとりで餃子を焼いた。私は仕事をやめて、餃子を包んだり刻みものをしたり、ホールで接客をした。経費削減のために、パートとアルバイトは半数に減らした。
退院後すぐ厨房に入った父だったが、以前よりも体力が落ち、包丁を持つと手が震えた。母は父に細かい作業をさせなくて済むように、麺類メインのメニューに変更した。それでも自慢のチャーハンだけはメニューから消さず、父は中華鍋を振り続けた。
中華料理店からラーメン屋になった。
客は減った。それ以前は宴会の予約もたくさん入っていたが、麺類ばかりではお酒はすすまないだろう。ランチタイムは賑わうが、夕方以降は暇になった。パートとアルバイトは更に人数を減らし、私も店を手伝う必要はなくなった。
父と腎臓病
脳梗塞から10数年。私は結婚して娘を2人産んだ。父は孫が可愛くて仕方ないようで、長女のために長靴を買ってきたり、なにかと気に入られようと頑張っていた。
笑うと眉間にシワがよる。
長女は「おじいちゃん怖い」と指差して笑った。
再び倒れた。
急性腎不全。
入院は数週間で終わったが、週3回の人工透析に通わなければならなかった。飲食の制限、飲める水の量も常人の半分以下と指定され、車いすが無ければ移動できないほど足腰が弱った。
父は母に厨房を任せ、店の奥で横になったり本を読んで過ごしていた。
半年後、寝ている時に肺で出血を起こし血を吐いた。救急車で運ばれ、総合病院ではなく腎臓病専門の病院に入院する事になった。
自分と同い年の地井武男さんが亡くなったニュースを聞いて、「次は俺かな」と泣いた。ひとりで起き上がろうとしてベッドから落ち、看護婦さんに怒られると「家に帰りたい」と泣いた。
私は仕事と保育園のお迎えがあるため、毎日はお見舞いに行けず歯がゆい思いをしてた。家計も苦しく、病院までの交通費もなんとか工面している状態だった。事務職の他に内職をやろうかと考えていたくらいだった。
父のお見舞い
ある日、有給を使って子供たちと一緒にお見舞いに行くと、父は車いすに座って歯を磨いていた。脳梗塞の後遺症が強く出ていて、右手はほとんど動かせないようだった。
「歯を磨いているの?」
聞いても虚ろな目をするだけで、機械的に左手を動かし続ける。
あとどれくらい生きられるのだろう。
長生きしてほしいと願うのは、残酷なことだろうか。
日に日に弱っていく父に会うたび、私は父のことをどう受け止めたら良いのか、わからなくなっていた。
話しかけても構ってくれないおじいちゃんに、娘たちはすぐに飽きてしまい「帰りたい」と騒ぎ始めた。長居するより回数を重ねて、父が話しをしてくれるタイミングを見つけよう。そう思って帰ることにした。
「じゃ、またね」
父に向かって左手を上げた。
父は黙って、歯ブラシを持ったまま左手を上げた。
父のこと
2013年秋、父は他界した。
病院から呼び出しがかかり、母と兄、私がかけつけた時にはすで息が無く、手を握ると固くなり始めていた。
母は静かに鼻をすすり、兄は黙っていた。
私はボロボロと涙が止まらず、ただただ、泣き続けるだけだった。
思い出すのは、店の厨房で汗を流す父の姿。
私が扉を開けると、父は顔を上げて眉間にしわを寄せる。
そして、左手を「やぁ」と上げてみせる。
私は気がついていた。
兄と一緒に店に遊びに行く時は、左手を上げない。兄に向ってコクリと頷いて、私のことは構ってくれなかった。だけど、私がひとりで店に行った時だけ左手を上げて、父はココにいるぞと示してくれていたのだ。
父は照れ屋だった。
そして、私を特別扱いしてくれた。
中学生の頃、深夜放送されていたヒッチコックの映画を、父とふたりで震えながら観た。
結婚式には引きずる右足をかばいながら、一緒にバージンロードを歩いた。
私が生まれたばかりの長女を抱かせると、ゴツゴツとした手で抱き留めて「可愛いなぁ」とつぶやいた。
次女の妊娠中、切迫流産で入院した私にお地蔵さんの置物を買ってきて、これでたぶん良くなるぞと、眉間にシワを寄せて笑った。
病室から出る時、「へばの」と照れくさそうに左手を上げた。
私にとって父は特別な人だった。
父が、私だけに見せてくれる左手を上げる仕草が、好きだった。
私は父が大好きだった。
左手を上げて、やぁ!
左手を上げながら保育園に入るのは、私なりに子供たちへ愛情アピールをしているつもり。「会いたかったよー!」って、精一杯表現しているんですよ。
父が私に伝えてくれたように。
私も娘たちに伝えたい。
でもお友達におかしな母親と思われたのなら、ちょっと自粛しましょうか。アピールの仕方を間違えたかしら。明日からどうしよう……。
「いいねって。さくらちゃん」
いいねって、さくらちゃん?
さくらちゃんは、お母さんが手を振ってくれて羨ましいと言ったようだ。
あら、イイ子じゃない、好きになっちゃいそう。じゃあ左手上げてやぁってするのは、止めなくて良さそうだね?
明日はさくらちゃんにも手を振ってみようか?
「よその子にやぁってしたらダメなのー!」
アリさんの引越しは、日が暮れても終わらない。手を繋いで3人でおうちに帰ろう。
また明日、お母さんがお迎えに行くの楽しみにしててね。
左手を上げて、やぁ!
ちょここと父と、娘たちの思い出でした。